*続。。「日本人はもてる?」「日本はどう思われているか?」*
「住んでいる国は親日?」「日本の事を知っているか?」
さて、一般に日本はどう思われているか。
しかし“親日”というのを額面通りに受け取って良いのでしょうか。
先のBlogで記載したように日本への印象も今日では多彩そのもの。
右も左もなく、自国に誇りを持つことは至極当然のことながら、
1990年代までは、
そして冒頭の日本人はどうか?日本人もてるか?等の質問に対してですが、
*知能と黒人から考える所謂TABOOとは何か*
今回は少し重いテーマを取り上げますが、
決して差別的な内容ではありません。
それは人種間の相違に関してです。
しっかりとした知能や感情そして複雑な社会性を伴う哺乳類においては特に、
同じ種であってもその身体的特徴や傾向、知性にも違いがあるように、
人類にもその疑問を至極ナチュラルでありながら、
いつしか知性への質問・検証すら“タブー視”されているのは何故でしょうか。
例えば「日本人は黒人、西洋人と比較して身体的能力が劣っている」や、
「日本人はフィジカルが弱いので。。。」という表現。
国際的なスポーツイベントやサッカーの親善試合などでも、
特にアフリカとの対戦前後には必ず溢れる表現で我々も違和感なく受け入れています。
これに対して差別的だ!発言を撤回しろ!という抗議は聞いた事がありません。
それは例え同じ人種であっても対格差や身体的特徴の差異に、
得意分野も異なり優劣は出るものだと我々は至極当然に理解しているからです。
運動の出来ない人は逆に他の分野に才能を開花させたり、
勉学にも差が当然発生します。
これは人類の共通認識であるならば、
知性や思考においても人種間で差異があると捉える事は問題なのか?
偏差値とは異なり知能テストにも様々ありますが、
一般的にこの手の試験では東アジア人が上位を独占します。
数学的思考分野の成果や試験では常に日本人はTOPですし、
米国の大学ではあまりにもアジア人のみが生徒比率を占めてしまうので、
例え入試の成績が良くても入学に制限があると聞いた事があります。
黒人やヒスパニックをバランスよく入学させるとの配慮が背景にあるからです。
そしてこれらの事実を、このように公式の場で発言すると、
何故途端に“差別主義者”としてレッテルが張られるのでしょうか。
そして身体的な優劣を論じてアジア人・日本人を蔑むような表現は、
我々への差別には当たらないようです。矛盾しませんか?
このBlogのテーマで何を伝えたいか。
何も他の人種との知能優劣を強調したいわけではありません。
差別を無くす為の極端な表現規制や”TABOO”というものは結果差別を助長したり、
本来の主旨から外れ本末転倒であるように思うからです。
今回は知能をテーマとしましたが、
これに限らず所謂TABOO視される命題こそしっかりと本来向き合うべきで、
そのことが、人類思考の進化につながるように感じます。
神道/仏教からの質問 ~カトリック編~
*何故PAPA(ローマ法皇)はいるのにMAMA(女性の法皇)はいないのか?
*厳格であるはずのカトリックの多い国でこそ特に暴力、性差別、人種差別、
男女差別、貧困がまん延しているのは何故か?
*罪は神父や神に告白するだけでどうして許されてしまうのか。
*全能と言われる神はイエス・キリストのような救世主の出現とその奇跡から
約数千年もSILENCE (沈黙)を保っているのは何故か。
*神が唯一・全能であるなら、
何故神は救済を求めるだけの不完全な人間を創造したのか。
大航海時代にはたくさんの宣教師が日本を訪れました。
現代ではその訪問が単に布教を目的としたもので無い事が分かっています。
中には有色人種の国への明確な侵略のミッションを持つ宣教師もいました。
日本もその他多くの国のように、植民地化を防ぐ攻防の時代にあったとも言えます。
カトリックを始め一神教を抱く宗教とは何か?
これら日本を訪問した宣教師は何故、”一神教”と“多神教”のように、
彼らの教義とそれ以外(ネガティブを含有する)とを区別したがるのか?。
そして布教の名のもとに暴力すら排除しない。改宗を迫る。
このように一神教に対して様々な疑問が湧きます。
日本人はこのような他を排斥するような考え方から自由であり、
この事が多くの疑問を我々に抱かせます。
「日本の修行僧、僧侶達は聡明で御し難い」。
当時日本を訪問した宣教師も彼らの聡明さには大変驚いたようで、
日本以外ではこのような事は無かったと本国へ送った手紙に記しています。
そして大航海時代はまた、日本における侍の全盛時代でもありました。
宣教師の自国国王への手紙には次のような下りもあります。
“他の有色人種と異なり日本人は手ごわい”。
外国への旅中においても様々な疑問を頂きませんか?
特に日本人は一つの宗教に固執せず、
知識欲や探求心が貪欲であるからこそ、
物事の一貫性や整合性をバランスよく俯瞰・判断できる特徴があります。
そしてカトリック(一神教)へは冒頭のような質問へとつながり、
ここに意地悪な悪意など全くないのです。
当時の宣教師はこれら日本人(特に僧侶からの)の疑問へどのような回答を行ったか。
文献を見る限り、あまり明確ではなく、納得させるものはなかったように思えます。
つまり一神教の場合、我々にとって“素朴”な質問にも明確に応えられないか、
もしくは本質を曖昧に濁す事が多いように感じます。
これら一神教の信者も、“唯一”である神を抱く宗教でありながら、
その存在を“心から”信じているのでしょうか。
都合の良い解釈で”神の名の元に”日常を過ごしていないか。
敢えているなら、“絶対的な存在”を認めて奇跡を求道する事は、
我々の弱さの象徴であり、依存心の表れとは言えないか。
唯一でない不完全な世界・現実で、
“唯一”を抱く宗教は飛びつきやすく・求心力がある反面、
それを信じる人々から、”考える力”や”独立心”を吸い取るようにも思えるのです。
仏教に馴染みのある日本人であることとは別として、
比較的仏教は理に対して、1神教よりは万物に寛容であるように思いますし、
各々の思想に柔軟で、人類の煩悩に対する回答を多く含有している事が、
“八百万の神の国”である日本にも馴染みやすかったのではないか。
日本を含み、宗教の話題をタブー視する国は多いですが、
それはその他思想に対して寛容さを忘れ、
ヒートアップ・過激化する事が問題なのです。
人類共通の課題に対してはそれこそ人類の英知を持ち寄る。
それが例え別の宗教・人種のIDEAでもいいように思いますし、
宗教は奥深く人類史の中心にいつも存在しているからこそ、
タブー視せず、徹底的に論陣を張れば良いと思うのです。
日本の妖怪 VS 中南米のモンスター
ラテンアメリカでも映画の”ホラー”と言えば日本製が有名です。
怪談話には事欠かない日本。
これも長い歴史の中で我々独自の思想・習慣・文化が混じった、
世界でも珍しい怪異の大変豊富な国だと言えます。
妖怪、物の怪、怪物、怨霊、幽霊、お化け、妖魔、亡霊、魔物、
亡者、生霊、悪霊、化け物、魍魎、死霊、霊、妖異、幽鬼、鬼、悪魔、
とまあ、よくこれほど分別されているのかと改めて日本語の多様さに驚きます。
上記の日本語それぞれをスペインに翻訳してみます。
1) Fantasma (幽霊というニュアンス)
2) Monstruo (怪物というニュアンス)
3) Demonio (悪魔というニュアンス)
大分すっきりしました。
日本人にとって妖怪と物の怪の持つimageは何となく異なりますし、
亡霊とお化けのニュアンスも一緒とは言えません。
語彙に豊富なスペイン語であってもこれら表現できない日本語の多様さ。
ここに日本語と日本人の持つ感性の鋭さが表われているように感じます。
それにしても物の怪までにも”お”化けのように敬称を忘れない日本人。
この点にも我々の心優しさが滲み出ていませんか?
例えばスペイン語でSr. (敬称) fantasma(幽霊)というのは聞いた事がありません。
彼らの言語は日本人・語の持つ”曖昧”さを嫌うからだとも言えます。
日本に怪談はどれほどあるのでしょうか。
我々も把握しきれていません。
中南米はどうか?
有名なllorona(泣き女)という怪談があります。
しかしその次が続きません。
友人・知人に尋ねると、ほとんどがこのlloronaか、
西洋の魔女や悪魔の話となり、日本のような”むかーし、むか~し”、
という下りの伝承は極めて僅か。
日本の百物語はおろか、蝋燭数本で怪談が終わってしまうのです。
そして冒頭の和性ホラーが何故世界の中でも恐ろしいか。
日本の長い歴史とこうした豊富な日本語からも説明が出来るのです。
死者の日 (dia de muertos) を通したメキシコの死生観
“死者を弔い風習や文化として祈り捧げる”という事は、
世界各地域で見られます。
一方で“厳密”に特定の日を設け、
その日に終日セレモニー(儀式、祭儀)を行う国は、
限られているのではないでしょうか。メキシコはそのうちの一つです。
約27か国で話されているスペイン語。
母語 = 思考の原点ですから、文化・社会・国民性の基盤とも言え、
スペイン語圏が集中するラテンアメリカの人口規模と大陸は広大でありながらも、
それぞれは“とても酷似した”一つの文化圏で構成されています。
長きに渡り主要なアステカを含む文明時代を共有した隣国グアテマラでは、
メキシコと似たような文化も散見されます。
しかし死者の日(祭事)の規模では際立つメキシコ。
プレヒスパニック(スペイン人入植前)文化の色彩を多く残したこの大国は、
数千年続く独自の慣習もいまだ数多く内包しているのです。
その中でもメキシコとって死者の日とは。
一年の中で大変重要な位置付けとなっています。
具体的にメキシコ人はどのように死者の日を過ごすのか。
子供の御霊が現世に戻る初日の11月1日、
大人の御霊を偲ぶ翌日の最終日11月2日と、
計2日間に渡って死者の日は区切られています。
これには子供 / 大人の区別なく、生前に故人の好んだ食べ物や飲み物に、
思い出の品を各家庭で供え、飾り立てる事からその日は始まります。
そして御霊とそれらのお供えを共有しながら祖先と語り合い、
中には終日泣き明かすメキシコ人も多い。
讃美歌のような歌を当日の祭事に添えて過ごす家族もいると聞きます。
その過ごし方は地域によっても異なり、大都市よりは中小地方都市や村の方が、
昔の祭事を踏襲・より大切にしているようです。
カトリックの多いラテンアメリカにあっても敬虔な信者の多いメキシコ。
イースター(イエス・キリスト“個人”の復活祭)とも厳密に異なり、
その経典に記載のない“死者の日”という独特な死生観。
数千年の長きに渡り捧げられてきた儀式と、別の大陸からもたらされた宗教との融合。
それが特別な日として、メキシコ独自の鮮やかな色彩を放つ慣習になっているのです。
死者の日の意義と過ごし方は日本のお盆と酷似してはいないでしょうか。
近年、日本同様メキシコでも、特に若者間でハロウィーンが浸透しています。
その10月31日と“日続き”である事から、死者の日とハロウィーンが別の融合を遂げ、
年配層は眉をひそめるようなコミカルなドクロをモチーフにしたfiesta (パーティー)が、
オリジナルとは異なる価値観を死者の日に生み出しています。
こうした例外はありながらも、故人を偲ぶ点においては(ここが非常に大切な点)、
日本のお盆との類似性は否定できません。
感情が豊かなメキシコ人。まさに彼らに当てはまる表現は喜怒哀楽でしょうか。
最愛の人が亡くなる際にあっても、慎み深く自身を抑えようとする日本人。
小さい時から我々は公共において、これら感情を抑制するように訓練されています。
対照的にメキシコ。死者の日にはその感情の豊かさを爆発させます。
親族で抱き合い大いに泣き崩れその日を迎える。
これら“死や死者”に対して、公私所関わりなく示す彼らの感情からは一見、
塗炭の愛別離苦の死生観をも感じとれます。
死とは決してこの世にあってはならない極端な恐ろしいものであるかのように。
一方では年間の平均殺人件数は約3万件を超えるメキシコ。
日本との比較では実に100倍の開きで、1日約80名が命を落としている。
治安の悪さは屈指。他国では載せらない殺人が日々の紙面を埋めています。
こうした数字は、普段死を恐れその瞬間を忌み嫌い遠ざけようとする
メキシコ人からは想像し難い事実です。
メキシコ人はよくわからない。ラテン各国からよく聞くフレーズです。
二面性のみならず人によっては三面性も存在するのがメキシコ人だと言います。
天上の最愛の人を愛でる死者の日の過ごし方と、実際はそうでないにしても、
まるで死を軽んじるかのように日々命が奪い奪われている現実との不一致。
アステカ時代は神聖な戦士同士の試合(現代のサッカーのようなスポーツ)の勝者が、
太陽のピラミッドの頂上で心臓を捧げたと言います。
これは名誉ある死であったようです。
矛盾する文化や国民性がこの国の本質であるなら、
それもまたメキシコと言う国家の魅力なのかもしれません。
日本もまた特殊な文明を有しながら、はっきりしない考えの民族代表だと、
外国人から言われることも多くないでしょうか。
日墨両国は共に長い歴史を有している。
その中で酵母され実は十人十色の国民性。
世界の中では両国とも複雑な民族とも言えます。
そしてまた、他文明の中でも特に珍しい“死者の日”の成立過程と捉え方。
単に一か国の習慣の物語ではなく、プレヒスパニックの自然崇拝との関係性に、
昨今急速に深まる日墨両国の共通項と遠因も、
“死者の日”という慣習から見出せるのです。
何故日本人は生産性が低い(低いと言われる)のか?
終電で自宅へ帰宅する事が常態化していませんか?
未だにスポーツ根性・気合論が大好きな(特にご老人)日本人。
働き方にまでそれらの精神論を持ち込んでいないでしょうか。
長時間残業を行う / 寝ていない = 賞賛される社会に対して、
私は昔から疑問を抱いておりました。
これまで中南米での駐在歴約10数年。数か国を支店長として歴任。
様々な人種の部下を持ちながら、
各国のビジネス慣習と日本との違いを直接経験して参りました。
その事から、日本人の時間の使い方に疑問を持つようになったのです。
例えば、中南米で残業を行う人はまずいません(中にはいます)。
私も日本で働いていたことがあります。
その際は終電で戻る事も多々ありました。
つまり公私の区別が曖昧で、
メリハリのない悪循環に当時は陥っていたのだと痛感します。
話はやや飛びますが、ドイツに数年赴任していた同僚の経験は参考になります。
彼らは就業時間に業務をきっちり終え、
その後の飲みにケーションなどもない。
無駄な会議も少ない。ここが大事です。
日本人には一見ドライに思えるかもしれません。
しかしながら、一人当たりの労働生産性は非常に高い。
欧米の文化と日本は異なりますし、盲目に彼らを賞賛するつもりはありません。
むしろ、日本人ならではの慣習や付き合い方も大切にしていくべきだと思います。
一方で働き方や時間の使い方に公私の区別に関しては、
我々も他国に学ぶ点はないでしょうか。
そしてもう少し、人生の中で自由であっても良いのではと思います。
*不幸せな日本・幸せなラテンアメリカ*
平均して約2~3万人/年間の自殺者が出る日本。
そして鬱やパニック症候群、過呼吸に不眠で苦しむ多くの人も。
5月病という独特の表現や、
日曜日夜の国民的アニメの時間帯に,
翌日月曜日からの出勤を“憂いてしまう不思議な国民性。
未だ日本は経済で豊かでありながらも、
幸福度ランキングなる世界調査では常にドンケツを争う。
一方のラテンアメリカ。
同じ幸福度調査では毎回ランキング上位にそれぞれが食い込む。
中南米諸国は決して経済的に豊かではありません。
各国平均的に国民の約70%以上が所謂貧困と分類され、
その末端は日本のそれ
(西成、神奈川のドヤ街や沖縄のスラムと比較しても)とは異なり、
さらに最下層にいる人たちは明日生きるか死ぬかとの表現も誇張ではなく。
それでもアンケートにおいて幸福な人々が多いと言うのは何故でしょうか。
特殊なのは日本かラテンアメリカなのか?
これまでの経験から個人の推察を述べていきます。
相対的に知能が高い人は鬱を発症しやすく、
人生に対して悲観的に陥りやすいという研究結果が多くあります。
つまり目先の事ではない遠い将来までを見通し、
時に不必要な事柄・事象まで思い至り自分を追い詰める結果、
脳が疲弊し、現実に対して嘆きやすい性質を招く。
知能の高い人は繊細で壊れやすいとも言えます。
そして古くから様々な災害と向き合ってきた日本は諸行無常。
当たり前の日常もいつか雲散霧消となる現実の世界。
日本の歴史は多くの教訓、備え、準備の必要性を日本人へ説いてきました。
現実に東アジア系(日韓中)は、
知能テスト(偏差値ではない)で常に世界上位にある事実。
そしてこの知能と鬱や自殺率との相関や、
楽観的な考えのみでは生存を脅かされてきた日本の環境と風土。
それに加えて幸せという感情すら、
何か大っぴらに出来ない社会属性も日本は持ち合わせています。
ここに、単に幸福度なるアンケートでありながら、
日本人と国家の持つ価値観や幸せに対する捉え方の特殊性を見いだせるのです。