リアル精神と時の扉 ; 密着中南米生活時事モール

肩書に頼らない本物の漢を目指しいつのまにか中南米生活十数年。現地時事ネタをベースに日本人の視点をお届けします。

神道/仏教からの質問 ~カトリック編~

*何故PAPA(ローマ法皇)はいるのにMAMA(女性の法皇)はいないのか?

*厳格であるはずのカトリックの多い国でこそ特に暴力、性差別、人種差別、

男女差別、貧困がまん延しているのは何故か?

*罪は神父や神に告白するだけでどうして許されてしまうのか。

*全能と言われる神はイエス・キリストのような救世主の出現とその奇跡から

 約数千年もSILENCE (沈黙)を保っているのは何故か。

*神が唯一・全能であるなら、

 何故神は救済を求めるだけの不完全な人間を創造したのか。

 

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大航海時代にはたくさんの宣教師が日本を訪れました。

現代ではその訪問が単に布教を目的としたもので無い事が分かっています。

中には有色人種の国への明確な侵略のミッションを持つ宣教師もいました。

日本もその他多くの国のように、植民地化を防ぐ攻防の時代にあったとも言えます。

 

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カトリックを始め一神教を抱く宗教とは何か?

これら日本を訪問した宣教師は何故、”一神教”と“多神教”のように、

彼らの教義とそれ以外(ネガティブを含有する)とを区別したがるのか?。

そして布教の名のもとに暴力すら排除しない。改宗を迫る。

このように一神教に対して様々な疑問が湧きます。

日本人はこのような他を排斥するような考え方から自由であり、

この事が多くの疑問を我々に抱かせます。

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 「日本の修行僧、僧侶達は聡明御し難い」

当時日本を訪問した宣教師も彼らの聡明さには大変驚いたようで、

日本以外ではこのような事は無かったと本国へ送った手紙に記しています。

そして大航海時代はまた、日本における侍の全盛時代でもありました。

宣教師の自国国王への手紙には次のような下りもあります。

“他の有色人種と異なり日本人は手ごわい”。

 

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 外国への旅中においても様々な疑問を頂きませんか?

特に日本人は一つの宗教に固執せず、

知識欲や探求心が貪欲であるからこそ、

物事の一貫性や整合性をバランスよく俯瞰・判断できる特徴があります。

そしてカトリック一神教)へは冒頭のような質問へとつながり、

ここに意地悪な悪意など全くないのです。

 

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当時の宣教師はこれら日本人(特に僧侶からの)の疑問へどのような回答を行ったか。

文献を見る限り、あまり明確ではなく、納得させるものはなかったように思えます。

つまり一神教の場合、我々にとって“素朴”な質問にも明確に応えられないか、

もしくは本質を曖昧に濁す事が多いように感じます。

これら一神教の信者も、“唯一”である神を抱く宗教でありながら、

その存在を“心から”信じているのでしょうか

都合の良い解釈で”神の名の元に”日常を過ごしていないか。

敢えているなら、“絶対的な存在”を認めて奇跡を求道する事は、

我々の弱さの象徴であり、依存心の表れとは言えないか。

唯一でない不完全な世界・現実で、

“唯一”を抱く宗教は飛びつきやすく・求心力がある反面、

それを信じる人々から、”考える力”や”独立心”を吸い取るようにも思えるのです。

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仏教に馴染みのある日本人であることとは別として、

比較的仏教は理に対して、1神教よりは万物に寛容であるように思いますし、

各々の思想に柔軟で、人類の煩悩に対する回答を多く含有している事が、

八百万の神の国”である日本にも馴染みやすかったのではないか。

日本を含み、宗教の話題をタブー視する国は多いですが、

それはその他思想に対して寛容さを忘れ、

ヒートアップ・過激化する事が問題なのです。

人類共通の課題に対してはそれこそ人類の英知を持ち寄る。

それが例え別の宗教・人種のIDEAでもいいように思いますし、

宗教は奥深く人類史の中心にいつも存在しているからこそ、

タブー視せず、徹底的に論陣を張れば良いと思うのです。