*貴方はお釈迦様なのですか?*
Yes or No またはSí o Noと、
海外で駐在生活を行っていると頻繁に遭遇する状況(選択を迫られる)です。
日本人は決断が遅いとよく言われます。
長く無用な頻繁な会議。そして何も決まらない。
世界規模で競争が激化するビジネス面ではマイナスの側面もある一方、
歴史・文化的背景においては、多様な意見を取り入れ、
誰もが傷つかずに納得する結論へ導こうとする先人の形作った土台を今でも
しっかり踏襲しているとも言えます。
一瞬の決断の遅さが、極端ではなく生命の危機に直結します。
これが考え方の基本であるという背景を認識する事も重要です。
一神教の限界とは?
人々から多様性を奪いかねないというリスクはないでしょうか。
仮に世界で“唯一の物がある”とします。
何かにもたれかかる事は楽ですし、
多くの人は“絶対的”な物にすがり信じる事で安息が得られます。
それは日常の不満やストレスなど余計なことを考えなくてすむからでしょうか。
もちろん、神学・宗教を学問として徹底的に探究し、
一生涯を捧げて哲学のように昇華されている方も多くいるでしょう。
一方で生活の基礎である宗教が唯一である事から、
日常の考え方もYes and Noとして、
本来は多種多様であるはずの選択肢を狭めているようにも思えるのです。
古くから日本は和算が大成し庶民一般のレベルにまで、
数学的知識が大いに浸透していました。今でも数学理解力は世界TOPです。
方程式の基礎や、世界的に重要な数学理論の形成にも和算の影響があると言います。
数学でいうノーベル賞のフィールズ賞も日本人は受賞しておりますし、
世紀の難題と言われたABC予想を解読したのも日本人でした。
なお、世界でこの理論を理解できるのはこの望月教授一人だけと言われます。
偏差値は1万とも。
そして話は飛躍しますが、
いずれ宇宙人と遭遇した際の最初の共通言語は数学になると言われています。
その数学とは解をたぐる思考の旅でしょうか。
つまり、プロセスに導く考えの柔軟性や多様性を問われており、
多神教(日本の歴史)である日本人だからこそ、
数学読解力も優れているのではないか?という仮説も完全に否定は出来ないのです。
最近ではファクトチェックなる、まるで唯一神がネット社会に登場し、
神や仏でもあるまいし、SNS上の発言を独自の視点で
正しいか否かを判断するそうです。
言葉狩りを行うこうした組織には疑問しか湧いてきません。
- 何が正しいか、神が唯一かどうかなどは、
その国や地域ごとの歴史と社会構造によって
各々が判断すれば良いわけです。
それを一方的にYESかNOでEvangelizeしてきた事に
人類史がこれまで直面した問題の根本が存在しているのではないでしょうか。
日本人として誕生した事の喜びと感謝は、
物心つく頃から多様性溢れる社会に触れ、その複雑な感性こそ、
多くの一神教の世界がもがきながら求めているように思えます。
従って、ファクトチェックなる組織に対しては大変な違和感を感じるわけです。
*日本人女性は人気がある、その意味と裏側*
日本人のお嫁さん、中国人のシェフ、イギリス人の執事を
揃えることが理想の人生というフレーズを、
大昔(現代でも言うのかは分かりません)に記憶していますが、
依然として日本人女性 = 世界では人気があるようです。
しかしその背景を考えた事はあるでしょうか。
以前の記事でも紹介致しましたが、
中南米はMachista (非常に男性が優位)の社会です。
それらシステムの上、好き嫌いを明確に表現するラテン女性。
それが男女間での喧嘩や言い争いの原動力になる事も多々あります。
当地で知り合った日本人駐在員男性の好みも分かれています。
気の強い(日本人にとって)外国人女性を一切好まず、
清楚な(彼らには)日本人、アジア人しか受け付けないという方。
外国人女性にこそ魅力を感じると言う少数派もいました。
しかし最終的には日本人女性が理想という意見が多いように感じます。
総じて大人しい女性を好むのが日本人男性であり、
女性に求めるものは、大人しい、可愛い、家庭的 =
時にはその考えが日本人女性からの独立心を奪い、
いつまでも可愛くしなければという精神的な依存心と、
社会的な強迫観念をも植え付けているのではないでしょうか。
結果的にInmadurez (未熟である事)である女性が、
日本社会に多く誕生してしまう背景もあるように思います。
日本人女性 = 大人しい、純情という印象は世界でも定着しており、
敢えて外国人男性の本心を述べると、
“簡単”に落とせる女性という事でもあるのです。
日本でラテンの男性と知り合い、
その国まで彼を追って来たものの、その男性とは音信不通。
結果、何故か“中国人男性”の子を妊娠して日本へ戻った女性がいました。
これは極端にしても日本人女性が人気、
というフレーズの背景にあるものをしっかり認識しないと、
男性本来の意図や本質から外れ、
日本人女性自身が世界で軽んじられてしまうという危険性もあるわけです。
*実は十人十色の日本、一方で無個性なラテンアメリカ*
感情が読めない。画一的でまるでロボットのような社会。
全員が同じに見える。個性がなく表現力の乏しい日本。
このようにステレオタイプな日本に対する見方は、
未だに世界の国々には存在します。
そして何より日本人である我々がこれら誤解を受け入れ、
偏見をも助長しているのです。
日本以外の国で仕事・生活を行って約10年。
多種多様な人種交わる国・地域を周りました。
その経験において、
“決して日本は無個性ではない”事に気付きました。
2000年以上の歴史と豊かな気候・地形・風土・自然に
育まれた文化が画一的なものであるはずがありません。
国内と外から見る日本への印象は相当異なります。
日本文化への憧憬、渇望、そして時にはそれら有する
日出る国への嫉妬も入り混じった海外の“想い”をこれまでの
海外生活で日々感じてきました。
伝統工芸、武道、職人の技、祭り、地域毎の豊かな食風土、
きめ細かいそれぞれの分野におけるサービス。
これら全てを持っている国を探すのは相当に骨が折れますし、
この一つすら持っていない国もラテンアメリカには数多くあります。
所謂多種多様な文化背景を持つ日本人は、
本来非常に感情が豊かで、それを表現する方法は何も
Apple/Facebook/Twitter/ Amazon等のCEOが行う
大仰なプレゼンのみではありません。
「ああまたか。。」と思うような上から目線だけの画一的な助言。
心に一切響かず、オリジナリティの無いサービスやビジネス。
話す内容は一辺倒で、死活問題に直結する政治や治安に関しては
各人意見はあるようですが、芯の通った確信や哲学、信念はおろか、
思考の広がりを残念ながら感じる事ができないのも中南米であり、
当地で長い期間働く中で感じた率直な残念な気持ちでした。
そのようなグローバル化 = 退屈な世界の画一化とも言える状況にあって、
ガラパゴス化 = 独自の文化を有する、日本の技術、
サービス、武道、伝統、漫画、アニメ、果ては独特のマナーにまで、
多くの国が群がり魅了される事こそ、
日本が十人十色の考えと細やかな表現で社会が溢れている証拠なのです。
*プロピーナ(チップ)が破壊するラテンアメリカのエチケット*
日本には馴染みの薄いチップという習慣。
そもそもチップというのは“温まるサービス”に感動した、
心付けのボランティアであって、義務ではないはずです。
中南米で生活を開始するまでは、
日本人としてそのように認識していました。
あいにく小銭の持ち合わせがなく、
仕方無しにレストランを立ち去ろうとするや否や、
あからさまに席の担当店員の態度が豹変する。
中にはチップを払えと店外まで追いかけてくる者まで。
中南米ではこのような事例は枚挙にいとまがありません。
コロンビアではチップが既に、
飲食代金のレシートに10%以上から含まれているなど、
もはやチップの本質からかけ離れています。
例えばチップ産みの親の米国では最低25%~。
本来の飲食代金が非常に高額な国故、
これら含めると一般的なレストランのランチでも、
約30 – 40USD/personで大変な金額に膨れ上ががる。
ウェイター、ウェイトレスのチップの蓄積が、
日本の一般サラリーマンの固定給を上回るのは理解できる気がします。
ピカピカに磨き上げられた白い歯で店内に歓迎してくれる彼ら。
チップがそうさせるのかと、穿った見方も出来てしまう。
本来サービスとはそういう物なのでしょうか??
日本の飲食業で数年働いた経験がありますが、
まずはお客様の為にという考えを徹底していました。
その背後にチップという観念は存在しません。
これら中南米の国において、チップの習慣はオーナに都合の良いものです。
給料が安くチップ抜きではウェイター等は生計が立てられない。
メキシコでは公然とこのようなニュアンスでチップの支払を、
店舗オーナー自ら命じて(懇願)来たことがありました。
給与不足分を“客に”補わせるという発想と日本人のサービス精神の違い。
ここに日本のおもてなしに多くの外国人が感動する理由があるような気がします。
*続 ; 武漢肺炎(新型コロナ)騒ぎで思う事*
毎年新型のコロナは発生するという事実。
インフルの年間死者は毎年世界で約25-30万人規模のようです。
日本でも毎年インフルでの死者は約6千から1万人で、
ピーク時(11月から2月)には1日約8千人の患者が発生。
今年はその死亡率が日本では、
3分の1に激減(武漢肺炎対策の結果救えた命も多々)。
毎年これだけ(ピーク時約数百万人)の“患者”に対応している国が、
Total 5千人(その内8割は軽症)のコロナ患者で、
“医療崩壊”をしてしまうのでしょうか。
右も左もとにかく武漢肺炎パニックのご時世、
他の風邪と同格扱いの発言に対しては、
インフルとは致死率含め異なる上にワクチンが無いと批判を受けます。
しかし、その“ワクチン”のあるインフルですら毎年上記の死亡者数で、
その度に「今日は10人の患者で」、
「誰々がインフルで死亡しました」などの報道も聞いた事がありません。
流行の度に都市封鎖を毎年行っていないのは何故でしょうか。
感染オリンピックではないのに、
不必要な感染者数を毎日各国が競っている。
そして国々で異なる死亡率。
米国では黒人のみがコロナによる死亡率が高いのは一体何故か。
ウィルスは各国・人へ差別なく平等に感染するのに、
このような点は誰も疑問に思わないのが不思議です。
この “大騒ぎ” の背景にあるものは何なのか。
決して武漢肺炎を軽視しているわけではありません。
しかし、年中家に閉じこもっている事こそが、
過度のストレスによる免疫不全で健常者でも病気になりやすく、
それこそコロナ関連の悲劇記事の大量salesで、
永遠に潤いたいマスコミの思うつぼではないかと。
高齢者には特に注意が必要なタイプの“新型コロナ”のようですが、
平静であれば救えたはずの命は人の脆さとパニックによる医療崩壊を招き、
“人災”が引き起こしたのではないかとすら思います。
ヨーロッパがこんなに脆いとは誰も思わなかったはず。
極端な話をすれば、
中南米では毎日約数千人単位の殺人事件が発生、
統計によると、1分に一度は女性が性的暴行の被害者です。
メキシコでは誇張なく日々痛ましい殺人事件が紙面を埋めている。
一帯何が真のウィルス = 脅威であるのか。
いずれにせよ、
1年後にはどの国・人の判断が正しかったのか判明するでしょう。
狂気溢れる事件から考察~メキシコ人は本来が残酷なのか?~
メキシコでは1日に約90名。
これが何の数字かお分かりでしょうか?
2019年の年間殺人件数はメキシコ史上ワーストの約3万3千人でした。
コロナショックの今年、経済苦からの犯罪も増加傾向にあり、
2020年は昨年を上回るペース。
日本の年間殺人件数が約300件ですから、
ほぼ同じ人口の両国ながら約100倍の開きがあります。
治安面ではとても優秀な日本と比較してはいけないのか?
それともメキシコ人特有の問題なのでしょうか。
海外、特にラテンアメリカで生活を行うにあたり、
頭の片隅から切り離せない治安に関するテーマ。
日本人女性とスペイン人男性夫婦の有名youtuberが、
東京での治安の悪い場所という題材を以前取り扱っていました。
しかし、どの地区もメキシコと比較すると平和そのもので、
日本でのスラム =
メキシコでは平均以上の安全な地区という印象でしたし、
“これのどこがスラムなのかと”、
中南米からのコメントで溢れていました。
まず、人種間における攻撃性の違いは“必ず”存在します。
運動をテーマにした場合、いつもアジア人は黒人に適わないとか、
体格で劣る日本人はと、お決まりの言い回しにうんざりしませんか?
一方で、人種間の“知能”や攻撃性の違いをテーマにしたものは一切タブー視。
人種差別主義者とレッテルを張られるようです。図星だからなのでしょうか。
近年の学術研究によって、
普段の食生活=
精神に与える影響が明らかになりつつあります。
口にするものは人間(哺乳類)からDNAが近い順番に、
人体(精神)へあまり良くない影響を与える事が分かっています。
例)人類 > 知能の高い哺乳類 > その他哺乳類 > 鶏などの鳥類 > 魚類・海産物。
世界で比較すると穏やかな日本人 VS
その他の国(韓国も中国も肉中心)
特にアングロサクソンの国々における沸点の高さが際立つように思います。
世界史における戦争の系譜・その中心にいる人種とは彼らではないかと。
“肉食が中心”の人種は苛立ちからすぐに、
暴力的になり易いというデータに基づいた研究もたくさんあります。
メキシコ含む中南米も総じて3食が肉食中心で野菜もほとんど食べません。
一方で、攻撃性が高いからこそ、
物事に積極・果敢に行動するという良い?側面もあるそうですが、
それでもあまりに多い、”拷問や残虐”な殺人事件。
好き嫌いではなく、メキシコ人に対しては“狂気”が垣間見える事もあります。
こうした食生活の上に、一向に改善しない貧困問題からのストレス。
そして、今や世界一と言ってもよい麻薬大国のメキシコでは、
これらドラックに絡む暴力も弱者関係なくエスカレーションの状況。
一方でインディヘナ固有の風習や古代アステカ文明などの風習に見える
残虐性も暴力の下地となっているのではないかと思えます。
これらの記載内容はメキシコ人にとって受け入れがたいでしょうが、
年間4万件近くの殺人件数の背景に対してもまた、
誰も納得のいく説明がメキシコ人からこれまた出てこないのです。
普段はその話し方から陽気そのもののメキシコへのimageですが、
日々の紙面を埋める殺人事件。
決してメキシコ人を侮辱しているわけではありません。
未だこれらメキシコの二面性の理解に苦しむ一人として、
上記述べたような論拠を全く事実無根と、
単に切り捨てられず、思うままを発信しました。
*真の異文化交流(日本の常識、中南米での非日常)*
帰国子女への漠然とした憧れ。海外生活への憧憬。
このような思い、少なからず日本人なら過去、
もしくは現在持っている方も多いと思います。
?何故?
これは日本人が本来もつ好寄心に加え、
人とは異なる事(この場合、”村社会“から出る人に対して)への愛憎が、
混在しているからではないでしょうか。
しかしBLOG主も海外生活を行って10数年以上経ちますが、
駐在や海外で一定期間生活する事が“単に”偉い事なのか?と常に疑問に思います。
しかし手取り足取り痒くない所にまで手の届いてくる、
人に大変優しい日本という国で生まれ育ち、その事が実は日本人から、
“ヒト”本来の機能や考え・生き抜く力を弱めてはいないでしょうか。
いやがおうにも国際化の進む(コロナでブレーキも)昨今、
各国との競争力と言う点で、
生粋の日本生まれの我々には課題も多いように感じます。
生活環境の各国との比較において、
日本の社会システムは本当に、
国民一人一人のエチケットに支えられた素晴らしい国です。
しかしそれは今回のテーマで置いておきます。
例えば、
過剰な街中に溢れる(これは守りましょう、列を守りましょうなど)アナウンス。
トイレではクラシック音楽が流れるものまでそして便座は温かい。
日中に頻繁な停電も無ければ電車は定刻通り。
1分の遅延で乗客が騒ぐ社会秩序。
道路は田舎であってもしっかり整備。
何より水と治安が無料である。寄生虫の心配もほぼない。
何を購入しても安心で、至る所に消費者側に立った工夫がある。
一方のベネズエラでは頻繁な停電。
断水は長い時で2日。そのためタンクに水を貯めてやり過ごすが、
トイレもすぐに満杯。そして何より料理をするにも水がないと始まらない。
治安が悪いので子供達だけで公園で遊ばすことなど考えられず、
一人で街を歩く時は常に盗難・強盗のリスクが片隅に。
残念ながら外国人は良いカモ(もちろん良い人も多い)。
値段交渉では必ず倍となる。
日本では外国人にはむしろディスカウントなど、
“おもてなし”の文化ですが、当地ではそうならない事が多い。
日常品も買ったその場から機能しない。
壊れている、返品もきかない。
何でも揃うコンビニなどないので、
電池一本探すにも専門の店まで遠征しかない、という事が多い。
日本では当たり前で慣れ親しんでいる事が、
実は多くの国では”そうではない”のです。
公共交通機関に時刻表など当たり前の如く存在せず。
落し物は99.9%拾った人の宝くじ(gracias a dios = 神のご加護)になる。
精神を患って日本へ急遽戻らされた日系駐在員も多くいます。
つまり、海外から戻ってくる事自体に価値があるのではなく、
その挑戦の中で何かを見出す事にこそ意義があるでのはないでしょうか。
行き過ぎたサービス / “OMOTENASHI”精神に、与えられることに慣れてしまった結果、
外に放り出された際の“体力”と“問題対処能力”を摩耗させ、
適応力・生活力と言う点においては、
日本人は弱体化しているのではと危惧する日々です。